30年近く前のことなので、
もうほとんど忘れてしまったが、
劉旭東さんと初めて会ったのは、
1994年か5年、上海の机場賓館のロビーだったと思う。
それまで何度も上海、大倉、張家港、蘇州のあたりの
工場を回っていた。
言葉がほぼ通じないので、
上海に行くたびに、スポットで通訳の人をお願いして、
長距離タクシーに乗って、工場を回っていた。
(上海→蘇州が、当時500元)
少しづつ生産の目処が立ち、できれば専属で一緒に工場を
回ってくれる通訳の人がいたらいいなと思っていた。
通訳の人が見つからない時があったり、人柄もさまざまで、
まあ、当たり外れがあったわけだ。
旭東さんは、父の友人の紹介で、手袋の会社で働いていた上海人の顧さんの
同級生ということだった。
「私は性格が柔らかいので、衣料品の仕事に向いていると思います」
日本人のような日本語を話すし、控えめだけど仕事ができそうな印象だった。
それから3ヶ月ほどの試用期間を経て、
旭東さんは社員になった。
以降、インデップを支える重要な役割をになってくことになる。
真面目で、あまり余計な話はしない人。
初期の工場探しを熱心に頑張ってくれて、
インデップの主力工場を育ててくれた。
浦東のマーキットや、アルパカ、倉利、ヤリス、張家港など、
今では懐かしい工場たち。
烏魯木斉、内蒙古、昆明、成都や福州など、
中国中を一緒に旅した良き友でもあった。
寝台列車で、ハルピン、チチハルあたりを移動したこともあった。
寧波のカットソーの工場によく行ったのを覚えている。
夢蝶という工場を訪問した時のこと。社長室に通されて、しばらく待っていると、
顔を真っ赤にした社長が泥酔状態で現れ、
「急いで運転して、今帰ってきたよ」
すごい飲酒運転!!
あまりに自慢話ばかりする工場長に呆れて、
その場で立ち上がって帰って来たことも。
屋台で食べた何かがあたり、
旭東さんが、完全にダウンしたため、
無免許の私が代わりに運転して、上海まで長距離を帰って来たことなど、
今となっては楽しい思い出である。
セーター工場のみならず、布帛の縫製工場や、カットソーの工場も
どんどん探して取引工場を増やした。
旭東さんと、過ごした90年代の日々は、目の前に可能性しか見えなかった。